その一つにタイトルの「泣いて馬謖を斬る」があります。
一般的な解釈はwikipediaの解釈だと思うので以下に引用してみます。
出典『三国志』「蜀志馬謖伝」
蜀(蜀漢)の武将・馬謖が、街亭の戦いで諸葛亮の指示に背いて敗戦を招いた。この責任をとり馬謖は処刑されることになるが、馬謖は諸葛亮の愛弟子であり、他の武将の一部からも「馬謖ほどの有能な将を」と慰留の声があがった。しかし諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と涙を流しながらも処刑に踏み切った。
この故事に関する記述は、『正史』と小説『三国志演義』で若干異なっている。
『正史』では「諸葛亮は彼(=馬謖)のために涙を流した」と書かれている。つまり、軍律を守る為に愛弟子を処刑することになり、彼のことを思って諸葛亮は泣いたとされている。
しかし『演義』では、何故泣くのかを蒋琬に訊かれた諸葛亮は「馬謖のために泣いたのではない」と答えている。諸葛亮は劉備に「馬謖を重く用いてはならない」という言葉を残されていたにも関わらず、その言葉を守らなかった自分の不明を嘆き、泣いたとされている。
ちなみに現在の日本では、「どんなに優秀な者であっても、私怨私情で法や規律を曲げて責任を不問にすることがあってはいけない」という意味で使用されることが多く、『正史』の記述に則したものであると言える。マスメディアでは、何か不祥事などを起こし仕方なく処分された人物などがいた場合に「泣いて○○を斬る」などと引用して利用されることがある。
いずれの説をとるにしても、かなり表面的なのですよね。
馬謖は、兄馬良に劣るとされながらも「馬氏の五常」の末っ子として才覚十分な人物。
諸葛亮は万能天才完全無欠な軍師として描かれがちですが(これはコーエーのゲームの能力設定のせいだと思われます。あと、演義での神がかりな描かれ方)実際には計画通り進行できる仕事で卓越していたという評価が実態に近いとされています。
確かに、大失敗を犯した(しかも命令違反で)から規律優先で綱紀粛正の為に処刑と言えば分りやすいです。
実際にはそれだけじゃないと思うのです。
諸葛亮はその能力の性質上、先々を読んで事を進めるタイプです。
後年の魏延との確執の原因たる「長安奇襲計画」を諸葛亮が却下し続けた理由の一つが街亭という拠点を失った為とされているのですが、街亭なしに魏に攻め込むのは不可能ということも読んでいたのではないかと思います。
北伐を敢行した根底には、先主劉備の漢の正統を正す為の統一への思いが強かったのではないかと思うのですが、街亭を失うことで先主の遺命(と諸葛亮が思っている)を果たすのが現実的でなくなることへの涙だったのではないか、とそう考えることが出来ます。
この説をとってもあまり意味がない(わかりづらいし故事として引用するのが難しい)のはわかるのですが・・・
「ロードサイドのハイエナ」と言われる経営者が某雑誌で「泣いて馬謖を斬る」を引用し、「関羽や張飛を切るわけにはいかない」と続けることで腑抜けてしまった自身のNo2の再起の話を語っていました。
これ、かなり表面的なとらえ方をした恥ずかしい引用例です。
確かに諸葛亮の立場で関羽や張飛(劉備の一族扱い)は切れませんが、劉備自身は両名や重臣(それも股肱と言える人)への厳罰も口にすることがあったので、「関羽や張飛を切る」こともありえたと言えます。(実際には難しいですけど)
関羽の死の直後に、自らの跡取りたる劉封を切っている(関羽に援軍を送らず見殺しにした為)という実績もあるので… 知れば知るほど故事成句の引用は難しいですねw
(ちなみに、劉封の死を劉備はかなり哀しんだというのは正史・演義共通で描かれています。上に立つ者として不本意でも処断したのがうかがえます)
劉備の先祖(とされる)漢の高祖劉邦はもっと過激だったのですが… そこまで書くと脱線が過ぎるのでこの辺で終了です。
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